近松のお墓のある廣濟寺の隣りに近松公園が整備され、その中に近松記念館があります。
近松門左衛門は1653年承応2年、越前福井で武士の二男として生まれました。本名は杉森信盛(すぎもり のぶもり)
館内の展示品などを説明して下さったボランティアの方によれば、まるで早口言葉のような名前!
父親は近松の少年時代に浪人となり、一家は京都へ。青年時代に公家に仕え、ここで様々な事を学び芝居の世界へ入っていったそうです。
歌舞伎を離れて浄瑠璃の執筆に専念したのは53歳のこと。ここから20年の間に名作と言われるもののほとんどを書いたというから驚きです。
さすがに366年前に生まれた方なので、実際に使っていた品は少なかったのですが、例えば黒漆がすっかり剥げてしまった文机。当時はさぞかし立派だったことでしょう。それに幅の広い大きめの硯に、携帯筆記用具の矢立が展示してありました。
これを目にして、ようやく文学史に名を遺す歴史上の人物という遠い存在だった近松が、実際に生きていた人なのだと感じることが出来ました。
『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』(おさん茂兵衛)の朗読会の前に、
NHK仙台放送局で番組を担当していた頃に大変お世話になり、退職後は歌舞伎ウォッチャー・作家として執筆活動をされている大原雄さんから、近松について伺うことが出来ました。それによりますと、
近松は、日本のシェークスピアです。
封建的な時代に生きながら、時代の中の近代性の萌芽を見つけて、人形浄瑠璃という、当時のテレビメディアをフルに使って、物語を書いた劇作家です。
江戸時代、歌舞伎や人形浄瑠璃は、テレビと同じ役割を果たしたメディアなんですね。
瓦版は、新聞ですが、ビジュアルなメディアは、歌舞伎や人形浄瑠璃しかなかった。
おさん茂兵衛は、不義密通ものですが、近松は、心中ものの第一人者です。
彼はジャーナリストで、事件記者で、プロデューサーです。
近松は浄瑠璃作家という認識でしたが、メディアのジャーナリストや事件記者という視点が面白く納得のいくものでした。
実際の大経師の妻おさんと手代茂兵衛の事件は、丹波の国に隠れていたところを捕らえられ、1683年9月22日、密通の罪で京の町中を引き回しの上磔の刑に処せられました。二人の仲立ちをした下女のたまも同日死罪になったとか。
その後1715年のお正月に、おさん茂兵衛の33回忌の追善興行として大阪竹本座で上演されたそうです。
『大経師昔暦』は、読んでみると現代に生きる私達にはわかりにくい文章ではありますが、暦を作り宮中におさめていた大経師の妻という立場からか、八十八夜、庚申、甲子、危日、滅日、黒日等々、数多くの暦に出てくる言葉が散りばめられています。このような形式で作品を作りあげた近松の言葉の感性は本当に素晴らしいと思いました。
声に出して読んでも聞いてみても、とてもリズムや調子が良く、日本語の心地良さを感じさせてくれるものでした。
香川京子さん、長谷川一夫さん主演で『近松物語』(1954)として映画化されています。原作とは少し違った演出もありますが、宜しければご覧になってみてはいかがでしょうか?