2019年04月29日

意志こそチカラ

令和まであと少し。
少しでも清々しい気持ちで迎えたくて、これまでの書類などを整理していたら
登山家 田部井淳子さんのお話を伺った時のメモが出てきました。
平成の仕事の思い出の一つとして記したいと思います。


田部井さんといえば昭和50年(1975)世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、中国名:チョモランマ)に女性として世界で初めて登頂に成功した方です。


昭和44年(1969)に『女子だけで海外遠征を』を合言葉に女子登攀クラブを設立し、目標に据えたのがエベレストでした。その後の準備期間の中で、まずは仲間を増やそうと上野や新宿などで見知らぬ女性達に「一緒にエベレストに登りましょう」と声をかけたそうです。
登山をしたことのある女性は皆「エベレストに登ってみたい!」「登れなくても近くで山を見てみたい!!」と言うのですが、その後に でも の二文字がついたそうです。「でも、技術がない」「でも、お金が無い」「でも、暇がない」・・・
そんな人たちが大多数だったとか。
その時にどうしたら行けるようになるのかを考えず、でも・・・と自分で行けない理由をつけて動かない様子を見て、本当にエベレストに行きたいのではないと感じたそうです。


何か問題が起こった時、失敗した時やピンチの時。
例えば山で料理をしたりするための大切なものの一つであるコンロが壊れた時、
「どうしてこのコンロにしたの?」
「このコンロを持ってきた○○さんが悪い」
挙句の果てには「これを作ったお店が悪い」と人のせいにしてしまう人も、本当に山に登りたいという意志のある人ではないし、「部品が無いから直せない」という人も・・・。
どうしたらコンロが使えるようになるのか打開策を考えられる人が本当に意志のある人だとおっしゃっていました。

世界最高峰のエベレストに登る、と聞くと一般的には体力、技術、財力、周りのサポートも時間も・・・と様々な条件が揃わないと無理と思ってしまいがちですが、田部井さんはご自分がエベレストに登れたのは体力や技術ではなく登りたい意志が強かったから、と話していました。
意志はお金で買えるものでもないし、両親、家族、友達、同僚など他の人が作ってくれるものでもない。自分の中から生み出していくもの。意志が何よりも大切で「意志こそチカラ」と熱っぽくおっしゃっていました。



お話を伺った当時の田部井さんは69歳。声に張りがありテンポ良い話し方で、お声を聞いているだけでエネルギーに満ちている方だと感じることができました。とてもスカッとした魅力的な女性でした。

令和を迎える前に、田部井さんの登山への情熱に改めて触れることができ、自分の姿勢を振り返りつつ、また新しい時代を生きていきたいと思いました。









posted by ヒロリン at 15:36| Comment(0) | 番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月15日

沈黙

「自分だったらどうしただろうか?」というのがこの作品を読んで最初に感じたことでした。

遠藤周作の『沈黙』
彼の代表作であり、73歳で他界された時には棺の中に『深い河』と共に収められたそうです。



『沈黙』の舞台は江戸時代。キリスト教禁止令が出されていた長崎です。

「ある優秀な神父フェレイラが長崎で拷問を受けキリスト教を棄てた」という報告がローマ教会に入ります。

主人公のポルトガル司教ロドリゴはフェレイラを尊敬する弟子で、報告が信じられずその事実を確認するために危険をおかしてマカオから日本に潜入しますが、臆病者の信徒に裏切られ、長崎奉行所に囚われの身となってしまいます。

ロドリゴは神に救いを求めますが、神はただ沈黙を続けるだけ・・・。

そして彼は司祭でありながら、神の存在そのものに疑念を持つようになり、
ついに踏み絵に足をかけてしまう・・・という物語です。



作品の中には踏み絵を拒み、殉教の道を選ぶ農民。
心に痛みを覚えながら踏み絵に足をかけ、表面上は仏教徒として、でも心の中ではキリスト教を棄てることなく密かに信仰を持ち続ける信徒。

捕らわれて命を落とす司教や、信徒たちの命を救う為に自分の信仰を犠牲にする司教など、様々な人が登場します。


(今年は大浦天主堂を筆頭とする「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。
かつては「隠れキリシタン」ということが多かったようですが、最近では禁教時代を「潜伏キリシタン」、禁教解除後もカトリックに戻らずかつての信仰形態を守っている人々を「カクレキリシタン」と呼んで区別しているそうです。)



自由であることが当たり前の現代日本に生きる私たちからすると、想像することが出来ないほどの苦難。殉教しても、棄教しても、棄教したと見せかけて生きるのも苦しすぎる道。

長崎を訪れ、潜伏キリシタンや『沈黙』に関わる所を訪れた時には、自分でも驚くほど心が揺れ動きました。
踏み絵を前にした人たちは、特にマリア様の踏み絵にためらいを見せていたとか。ただ心ならずも踏み絵に足をかけ、必死の思いで信仰を守り続けた人々がいたからこそ「信徒発見」の奇跡や今に続くカクレキリシタンへと繋がっていくことを思うと、当時の一人ひとりの選択はそれぞれに意義があったと思わずにはいられません。

ちなみに、カクレキリシタンは、昭和初期から戦後におよそ3万人いましたが、若者の流出などで組織の解散が相次ぎ、現在は数か所しか残っていない、ということです。「大浦天主堂物語」より



長崎県外海町にある遠藤周作文学館は、ロドリゴがひと目を避けて日本上陸をはかった村が見下ろせる小さな岬の突端に建つ夕陽の名所。ある小春日和のお昼頃に訪ねましたが、角力灘に面したテラスからの眺望はまさに絶景で、青い海の穏やかな景色のあまりの美しさに、ずっと眺めていたいそんな気持ちになりました。その静かな海の美しさがまた悲しみを誘うのですが・・・。


おしまいにグレゴリオ聖歌が流れる文学館の中で出合った遠藤周作さんの「愛」のメッセージをご紹介します。

私は愛とは「棄てないこと」だと思っています。
愛する対象が━人間であれ、ものであれ━
どんなにみにくく、気にいらなくなっても、
これを棄てないこと。
それが愛のはじまりなのです。  『愛と人生をめぐる断想』より










posted by ヒロリン at 11:38| Comment(1) | 番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

取り返しのつかない旅

「旅には取り返しのつかない旅がある」
この言葉を聞いた時、どんなとんでもない失敗が関わった旅のことを指すのだろうと思いました。「取り返しのつかない」は失ったものを取り戻すことが不可能で、どうにもならない状態に陥っている、そんなマイナスな想像をさせる言葉です。

ところが、全く違った意味合いをもつ表現だったのです。

「取り返しのつかない旅」は作家の沢木耕太郎さんが講演会の中で話された言葉です。
沢木さんによれば、これはある文化人類学者の言葉で、自分を根本から変えられる深い爪あとを残すような旅。
「取り返しのつかない」を肯定的に捉えて、自分にとって二度と起きないような旅、そんな大きな意味を持つ旅のことを指すのだそうです。



これまでの旅を振り返ってみると、若い頃にした旅のほうが記憶や印象が鮮明です。それは初めて見る景色、初めて食べる食材や料理、初めての土地の香りや空気感などなど、初体験が大きく影響しているのでしょう。

沢木さんは、未経験は負の財産だが、旅をする人にとっては大きな財産。経験していないから様々なことに驚いたり感動できたりすると話していました。

となると、旅の経験を積み重ねていけばいくほど新鮮味が失われて、取り返しのつかない大きな旅はもう二度と経験出来ないように思ってしまいます。



でも沢木さんにとって岩手県北上市にある詩歌文学館でのひと時は、その経験や記憶が時間をきらめかせてくれるようなものだったそうです。

若い頃に出会いお世話になった企業経営者の方、詩歌文学館でかつて名誉館長を務めていた作家の井上靖さん、井上さんのお宅に伺った際におっしゃった奥様の言葉、訪れた日に降った北上の初雪、そしてその庭に舞う美しい雪の中飛来したアオサギの姿・・・。

これまでの様々な経験や記憶の幾つかがその場で偶然に重なり合い生み出されたような、そんなきらめくような時間だったそうです。



経験値が高くなると自分を根底からゆるがすような大きな旅は出来ないかもしれないけれど、自分が大切にした記憶や経験を、ある時間、空間で繰り出すことで意味のあるものに出来る。それは小さな旅ではありますが、経験や記憶が大きな財産となって自分の時間をきらめかせてくれる、そんな北上での旅について伺うことが出来ました。


これは経験があればこその旅であり、自分だけしか感じることの出来ない旅。
そんな心を輝かせてくれるような旅や経験が出来たらと思いました。
その為には、日々の小さなことを大切に、そしてその瞬間がやって来た時に気付けるような感性を持ち続けられる自分でいなければ、と思った印象深いお話でした。






posted by ヒロリン at 09:57| Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする